親が「勉強しなさい」と育てた子は勉強ができない子に育ち、「片付けなさい」と育てた子は片付けられない子になる。

ぼくは、ぼくの親がぼくに対しておこなってきた教育はことごとく間違いであったと思っている。悲しい話だが、そう思う。

 

ただ「ぼくの親はこれが間違っている!」とか言ってもどうしようもないので、あくまでも話を一般化して書こうと思う。別に自分の不遇を呪いたいわけじゃないのだ。どうせならそこから、学びを得たいのだ。

 

ぼくの親に限らず、親という生き物は「あれをしなさい、これをしなさい」と、子どもに命令ばかりする。これが親からすると、「この子が大人になってから困らないように」「この子のため」だとかいう、思い違いも甚だしい考えのもとでなされているので、すごくタチが悪い。

 

実際ぼくは思うのだが、「勉強しなさい」と言われ続けて育った子どもは、果たして勉強ができるようになったのか??

 

「使ったものはちゃんと片付けなさい」と言われて育った子どもは?

 

現にぼくは、もうストレスで鬱になるくらい、「片付けろ片付けろ」と言われて育ち、大人になって片付けの全くできない人間に育ちましたが? 片付けが「苦手」どころではなく「不可能」なレベル。もちろんぼくの一例が一般の話だと言うつもりはないけども。

 

いや、ぼくは思うのだが、

「"Aをしなさい"と命令され続けて育った子どもは、絶対"Aのできない子"に育つ」よ。

 

たとえば「勉強しなさい」と言われ続けた子ども、そもそも絶対に勉強を好きにならないよ。この時点ではい終了という感じなんだけど、さらに、自分から進んで勉強することはないだろうね。「やれと言われてやるもの」だから。

 

そして、なにより残念なのは、勉強をなぜやるのか?やったほうがいいのか?というのを子どもが自分の頭で考える機会を奪っている。だって、その考えに至るまでに、命令によって勉強するからね。

 

子どもが自分の頭で、勉強する理由を考えて、こうだから勉強はするべきだなとか、自分はこう思うから勉強はしたい!とか、一度自分の頭で結論を導けたなら、子どもは絶対に勉強する。なのに、その機会を奪って、親が「とりあえず何も考えず勉強はしておけ」と言わんばかりに、命令だけする。まあ正直これは最低だね。

 

まあもし、子どもが自分の頭で考えて「勉強、別にいらないじゃん」と思ったなら、それはもうその子にとって勉強はいらないんだ。子どもが自分の頭で出した結論を、親が邪魔するなんて許せないし、それなら勉強しなくていいと思う。それでその子が困ったなら、その子はまた自分の頭で考えるのさ。その時にやっぱり勉強が必要だと思ったなら勉強する。親からの命令で勉強するより、ずっと高いモチベーションで。

 

勉強に限らず、大事なのは「自分の頭で考える」ことで、「自分の頭で考えた結果、やりたいと思ったこと」なら、子どもは全力で取り組むさ。誰に何を言われなくとも。だから命令によって勉強させたりして、「なぜ勉強するのかを考える機会」を奪うのは、最低の悪手だということだ。

 

「片付け」だってそうだ。

 

命令されてどれだけの「考える機会」が奪われるか、想像しないのだろうか?

 

「散らかってきたな」と考え、

 

「これだけ散らかると、気分も良くないな」と考え、

 

「散らかっていると気分が良くないんだ。じゃあ散らかさないようにしないとな。」

 

など、様々なことを自分の頭で考えて、「片付けする必要性」を十分に理解して、「片付けするメリット」も理解する。こうなれば、言わずとも自発的に片付けるさ。誰だってそうじゃないか?

 

ぼくはこの機会がことごとく奪われて育ったな〜。別に自分の片付けができないのは親のせいだ!とかいまさら断罪するつもりはないけど。

 

「散らかってきたな」とも、「散らかると気分が良くないな」とも、「片付けるとこんなメリットがあるな」とも、考える機会がなかったし、考えたことがなかった。

 

だからいまぼくが片付けのできない人間になったのかは知らないが、少なくとも「ずっと命令され続けてきた」のはひどく悪影響だったと思う。

 

こういう理由で、「"Aをしなさい"と命令され続けて育った子どもは、絶対"Aのできない子"に育つ」と思う。Aについて考える機会を奪われているのだから。

 

だから、親も、「この子のため」とか、嘘ついてないで、認めなよ。「この子が将来困ろうとも、とりあえずいま物が邪魔だから片付けさせたい」「この子の将来は知ったこっちゃないが、とりあえず勉強させておきたい」という結局親のエゴ、自己中心主義を認めちゃいなよ。まさか、ほんとうに「この子のために命令してる」の?それはヤバイと思うよ。