「自分が死のうと大したことないや」と思えば生きるのが楽になれるし、実際自分が死のうと大したことない。

「自分が死のうと大したことないや」と思えば生きるのが楽になれるし、実際自分が死のうと大したことない。

 

これは最近よく思うことである。最近思うようになったのか、もともと心の底では感じていたことが今になって彫刻のように削り出されたのかは定かではない。

 

誰かが死ぬと悲しいし、自分が死ぬなんてめちゃめちゃ怖いと感じるけど、そもそもそれって幻想だよねっていう話。もっといえば人間の感情なんてすべて脳が作り上げた幻想じゃないか。死ぬのが怖いのは、種の存続のため、脳が「死ぬな!」と命令しているのさ。

「死ぬのが怖い」のではなくて、「死んだら(種として)困るから、恐怖という感情を作り出している」という、アドラー心理学的な話になる。

 

脳が、「自分が死なないように」死に対して「恐怖」という感情を作ってるわけなので、自分の個体レベルだと「死んではいけない」ということになる。

でもそれを言い出したらクジラに大量に食べられるイワシだって生存本能はあるはずだし、虫にだってある。個体レベルでは「自分は死んではいけない」と思っていても、むしろ環境は大量の「死」で成り立っているし、「進化」だってそうさ。環境に適応できない遺伝子を持つ個体が絶滅レベルで死ぬことでその種は進化していく。

生存本能は各個体にあれど、「死」は環境においては当然のこととしてある。

 

正直、自分が死ぬことなんて、環境からすればそこらへんの蚊が死ぬのと一緒さ。これは別に大富豪が死のうが著名人が死のうが同じ。

やけに「死」を恐れているのは、人間が作り出した幻想だ。もともと生物の脳に死に対する恐怖はあれど、それを人間が増幅させ続けてきた。

なぜ人間はそうしてきたかと言うと、一つは「生きる」ための最も強力な武器=「死に対する恐怖」を増幅させると人は生きるし、人間は繁栄できる。

これはどちらかというと無意識下でおこなっていると思う。

二つめは確信犯的なところがある。「死に対する恐怖」は、特定の人間にとっては「都合がいい」。

宗教なんかはそういうビジネスではないか?死への恐怖を植え付け、恐怖から解放されようと人々が宗教にすがるように。

 

まあいろんな要素はあれど、人間は確実に、「死に対する恐怖」を「増幅」させている。これは間違いない。

人間の作った幻想=「死への異常な恐怖」を一度自分の頭から解放すれば、「死」とはどのように見えるだろうか?それでも死ぬのは怖いだろうか?

怖い。残念ながら怖いのは間違いない。人間が植え付ける以前に「本能」だから。

でも、ただの本能である。という見方もある。

 

死とはすごく巨大で、漠然としていて、複雑な問題に思えるかもしれないが、そんなことはなく、ただの本能である。生きとし生けるものなら死にたくなくて当たり前。自分を守る本能が備わっているのは鳥も魚も虫も同じ。それでもやっぱりみんな大量に死ぬ。そしてそれが問題なことかといえば、魚が食べられるのも、虫がそこらで死ぬのも、全く問題ではない。むしろ死は環境に必須。そして、それは人間も同じ。

 

異常に怖がらなくても、死んでもなんら問題はない。

 

そう思うと、辛かったり絶望したりしても楽に思える。強調したいのは、「楽に思えるから無理矢理この考えを作り出している」のではなく、実際にそう思うのだ。

 

死んでもいい。

だから、死に怯えているより、死んでもいいんだから楽に生きればいい。

 

絶対に負けられないゲームより、別に負けてもいいゲームのほうが楽しめる。あ、これ逆の人もいるか。ぼくはこう思うのだけど。

 

全財産かけて戦うゲームなんか楽しめたものじゃないけど、「勝てば黒毛和牛、負けても別になにも」みたいなゲームならめちゃめちゃ楽しいと思うんだ。

 

人生もそんな考えでもいい。死んでもいいと思った方がむしろ楽になれると思う。