自殺を考える。

これまで「遺書」と言っておきながら普通の「価値観ブログ」っぽいところはあったが、そろそろほんとうに遺書を書きたくなってきた。いや、これまでも自分の中では「遺書」のつもりだったが、これまでよりも、より「遺書」らしい遺書を。

 

というのも、最近は自殺を考えるからだ。

以前までは「自殺はしないが遺書は書いておきたい」という立ち位置だったが、最近は自殺すら考える。人生八方塞がりだ。

 

だめなもので、自殺を考え、頭の中が渦を巻いてごちゃごちゃになっていると、何も考えられないものだ。こうして、ブログを開いてみたものの、あれ、何を書こうと思ったのだっけ?と思うし、遺書らしい遺書って、何が書きたいんだっけ?と思う。もう思考も働かないのだ。

そりゃそうだ。もう食べものすらない。戦時中かのような食糧状況だ。身体は痩せ細るばかり。「日本に住んでいれば死なない」なんて色んな人物が言っているのは大間違いだ。

自殺を考えるというより、自殺だろうが普通に死ぬだろうが、これ以上もう生きれないっていうのがほんとうのところだ。食べものがなかったらそりゃ死ぬさ。金がなくとも食べものがあれば生きていけるかもしれないが、これが食べものも金も全くない。どっちにせよもう死ぬ。

だから、遺書を、いままでよりも、より「遺書らしい遺書」を書こうと思ったんだけど、なんにも思い浮かんでこないな〜。だめだ。

 

伝えたいことが思い浮かぶくらいに思考が回復すると、自殺のことは考えないだろうし、自殺を考えているときは思考が止まっているだろうし、これは伝えたいこと伝えられずに死んでしまうパターンかなあ?そうかもしれないなあ?

 

だれか自殺を止めてくれと思う。これは、自殺を考えたことない人には意味わかんないだろう。じゃあ自殺しなけりゃいいじゃん。と。

 

みんな、自殺したくない。けど、もう生きられない。

 

だから、自殺を止めて生かしてほしいけど、自殺を思いとどまらせるだけで満足する偽善者なら近づかないでくれってことだ。死ぬのを止めたなら、生きさせてくれよ。と。

 

そう思う。

「パラレルワールド」が要る。

シェアリングエコノミーが普及しつつある。と言ってもまだ初期段階でこれからさらに流れは加速していくだろう。

ところでぼくはそんな社会的な、経済的な話題を取り上げたいわけではなく、もっとフィクションの、妄想の話をしようと思っている次第だ。

というのも、人は、生物は、すべての森羅万象は、「次元をシェアしている」というところから話は始まる。シェアリングエコノミー台頭よりもずっと昔、というより始めから、次元をシェアし続けているのだ。

ここで本記事の題名に繋がるが、もうそのような「次元のシェアリングエコノミー」はやめて、「パラレルワールド」があればどれほどいいか。

この世のあらゆる問題は森羅万象が次元をシェアしていることで起こる。

次元というとわかりにくいが、「空間」と言ったほうが伝わるかもしれない。紛争地帯であるシリアと、平和ボケしている日本では、違う世界のようで、遠いだけの同じ空間での出来事なのだ。

考えてみれば、今誰かに降りかかっている問題は、パラレルワールドがあれば起きないものだ。

心理学者のアドラーは「すべての問題は人間関係によるものである」と言う。たしかにそうだ。些細な問題から紛争などの壮大な問題まで、人間の「価値観の違い」によるものだ。「価値観はみんな違って当たり前」なので多様な価値観があっていいが、結局、違う価値観が「同じ次元をシェアしざるを得ない」ことの解決方法は未だ闇の中だ。

ぼくはふと、絶望視してしまうのだが、「多様な価値観を認め、問題の起こり続ける世界」よりも、「そもそも違う価値観は次元を共有すべきではないのでは?」と思ってしまう。

これはフィクションの話だ。現実では次元はシェアしざるを得ないので多様な価値観を認めるべきだ。(と言い訳しておかないと収集がつかない。)

まったく価値観の合わない上司や隣人とは、別の次元(=パラレルワールド)に行けばいい。価値観が混在する次元を共有している限り、その上司と遠く離れたってまた次の職場に同じような奴がいる。隣人と離れたって街を歩けば似たような奴がいて最悪の場合問題が起きる。

どう考えたって相容れないタイプの人間とは、空間ごと、世界ごと、違う次元に住めたらいい。

価値観の混在は、問題だらけだ。一方が抑圧するのも、両方が譲歩しあうのも、結局問題にしか繋がらない。唯一の解決策は、まったく別の世界に行くことだ。別の土地や国では足りない。「違う次元」へだ。

 

だが最後に、この話には落とし穴があって、パラレルワールドがあったとして、それはきっと「国」と同じ末路を辿るだろう。指が疲れたのでこの話は詳しくはしないということで。

「自分のことは自分でやるべき」みたいなのは無視して、たくさん頼るべき。

「自分のことは自分でやるべき」みたいな考えが、なぜここまで人間の、(主に日本人の?なのかな?)、脳にこびりついているのか、まったくわからない。いつから?なにがあって?

 

いつからか、なぜなのかは知らないが、少なくとも別に自分のことは自分でやるべきでもなんでもない。それを言い出したらみんな畑を耕して野菜を栽培して、牛を飼い豚を飼い、海の食べ物を採るときも山の食べ物を採るときも、車は使わずに自分の足で歩いていかなければならない。

例が極端と思うかもしれないが、極端でもなんでもないと思うのはぼくだけだろうか?「分業」によって文化が発展してきたことは言うまでもない。畑を耕す人は野菜を作ることに集中し、鶏を飼う人、牛を飼う人、と分業することで人々の生活は幾分と便利になった。

できないことは他人に任せ、自分は自分のできることをやればいいのだ。

 

そもそも、人間という生き物は「他人に頼ることを前提」に生まれてきている。

 

産まれたばかりの赤子はなぜあれほどにも自分ではなにもできない存在なのか考えたことはあるだろうか?馬の類のように、産まれてすぐに自分の脚で立ち上がることができる種もいるというのに。

それは、人間の脳が巨大化したことと、人間が直立歩行をし始めたことが関係している。

これらは相反する。巨大な脳を持つ赤子を産むために女性の下半身は大きくなければいけない。だが直立歩行をするためには下半身が大きいと不利である。

そのために人間がとった選択が、「極端な早産」である。赤子の頭が成長しきる前に産み落とすのである。

すると、「自分では何もできない赤子」が産まれるので、人間の母親の負担は増える。早産により脳の巨大化と直立歩行を両立できたが、子育てコストが高くなってしまった。

だから、人間は「コミュニティ」を作る生物となった。

コミュニティを作り、早産した赤子の子育てを助けてもらうためだ。

 

人間は、そもそもが「助けてもらうことが前提」なのだ。助けてもらうことは、人間の「生存戦略」だ。

 

だから「自分の子くらい自分で育てろ!」などという批判は、的はずれもいいところだ。

「ベビーシッターに預けっぱなしなんてかわいそう」

「両親に頼ってないで自分で育てろ!」

「子育ての資金をクラウドファンディングで募るな!自分で稼げ」

など、すべてなーんもわかってない人間の言うことである。

 

子育てに限らずだが、人に頼ることはなにも悪くないし怠けでもない。これは人間という生物にとって明らかだ。むしろ人間は助けられてこそ生きるのだ。

 

「自分のことは自分でやる」ように教育する学校や親は多いが、むしろ人間という生物にとっては「助けてもらえるような人間になる」ように教育するほうが、よっぽど正解なのだ。

「自分が死のうと大したことないや」と思えば生きるのが楽になれるし、実際自分が死のうと大したことない。

「自分が死のうと大したことないや」と思えば生きるのが楽になれるし、実際自分が死のうと大したことない。

 

これは最近よく思うことである。最近思うようになったのか、もともと心の底では感じていたことが今になって彫刻のように削り出されたのかは定かではない。

 

誰かが死ぬと悲しいし、自分が死ぬなんてめちゃめちゃ怖いと感じるけど、そもそもそれって幻想だよねっていう話。もっといえば人間の感情なんてすべて脳が作り上げた幻想じゃないか。死ぬのが怖いのは、種の存続のため、脳が「死ぬな!」と命令しているのさ。

「死ぬのが怖い」のではなくて、「死んだら(種として)困るから、恐怖という感情を作り出している」という、アドラー心理学的な話になる。

 

脳が、「自分が死なないように」死に対して「恐怖」という感情を作ってるわけなので、自分の個体レベルだと「死んではいけない」ということになる。

でもそれを言い出したらクジラに大量に食べられるイワシだって生存本能はあるはずだし、虫にだってある。個体レベルでは「自分は死んではいけない」と思っていても、むしろ環境は大量の「死」で成り立っているし、「進化」だってそうさ。環境に適応できない遺伝子を持つ個体が絶滅レベルで死ぬことでその種は進化していく。

生存本能は各個体にあれど、「死」は環境においては当然のこととしてある。

 

正直、自分が死ぬことなんて、環境からすればそこらへんの蚊が死ぬのと一緒さ。これは別に大富豪が死のうが著名人が死のうが同じ。

やけに「死」を恐れているのは、人間が作り出した幻想だ。もともと生物の脳に死に対する恐怖はあれど、それを人間が増幅させ続けてきた。

なぜ人間はそうしてきたかと言うと、一つは「生きる」ための最も強力な武器=「死に対する恐怖」を増幅させると人は生きるし、人間は繁栄できる。

これはどちらかというと無意識下でおこなっていると思う。

二つめは確信犯的なところがある。「死に対する恐怖」は、特定の人間にとっては「都合がいい」。

宗教なんかはそういうビジネスではないか?死への恐怖を植え付け、恐怖から解放されようと人々が宗教にすがるように。

 

まあいろんな要素はあれど、人間は確実に、「死に対する恐怖」を「増幅」させている。これは間違いない。

人間の作った幻想=「死への異常な恐怖」を一度自分の頭から解放すれば、「死」とはどのように見えるだろうか?それでも死ぬのは怖いだろうか?

怖い。残念ながら怖いのは間違いない。人間が植え付ける以前に「本能」だから。

でも、ただの本能である。という見方もある。

 

死とはすごく巨大で、漠然としていて、複雑な問題に思えるかもしれないが、そんなことはなく、ただの本能である。生きとし生けるものなら死にたくなくて当たり前。自分を守る本能が備わっているのは鳥も魚も虫も同じ。それでもやっぱりみんな大量に死ぬ。そしてそれが問題なことかといえば、魚が食べられるのも、虫がそこらで死ぬのも、全く問題ではない。むしろ死は環境に必須。そして、それは人間も同じ。

 

異常に怖がらなくても、死んでもなんら問題はない。

 

そう思うと、辛かったり絶望したりしても楽に思える。強調したいのは、「楽に思えるから無理矢理この考えを作り出している」のではなく、実際にそう思うのだ。

 

死んでもいい。

だから、死に怯えているより、死んでもいいんだから楽に生きればいい。

 

絶対に負けられないゲームより、別に負けてもいいゲームのほうが楽しめる。あ、これ逆の人もいるか。ぼくはこう思うのだけど。

 

全財産かけて戦うゲームなんか楽しめたものじゃないけど、「勝てば黒毛和牛、負けても別になにも」みたいなゲームならめちゃめちゃ楽しいと思うんだ。

 

人生もそんな考えでもいい。死んでもいいと思った方がむしろ楽になれると思う。

職場に一人はいる「手足をはやく動かしてテキパキ仕事こなしてます!(ドヤァ)」の奴はまじで邪魔者

絶対こういう奴一人はいるよね〜。

 

むしろ、みんなこんな感じの人間ばかりの職場もある。吐き気がするよね〜...

 

断言するが、そいつは、まったくもって「仕事ができない奴」だ。

 

もっと言えば、周りの人にも悪影響を及ぼす、最悪の要素であることは間違いない。

 

なぜそうなのか、ということを述べると、

 

そもそも「手足をはやく動かして仕事を早くこなす」という方法が科学的に言って、圧倒的に間違っているからだ。

 

結論を先に言うと、仕事を早くこなしたいなら、すべきは「やらないことを決める」の一択だ。(これは詳しく後で述べるとして)

 

仕事を早くこなすために、手足を早く動かすと、人間の脳は「焦り」を感じる。

 

これは実際にその人が「焦っている」と認識しているかしていないかは関係ない。

 

実際に焦っていない (と、本人は思っている) 時でも、焦っている時のような行動をとれば脳は「焦っている」と認識する。

 

これは逆手にとれば、焦っている時にあえて一呼吸おいたり、落ち着いているときにいつも自分がとるような行動をとると、脳は焦っていないと認識するのだ。

 

これで、「手足をはやく動かせば脳は焦りを感じる」というのはわかるだろう。

 

「でも、焦りを感じても、焦りも味方して結果的に仕事が早くなるのでは?」と思いそうなところであるが、これは真逆である。

 

脳の「焦り」の話には続きがあって、

なんと先述のような、脳が「焦り」を感じている状態だと人間は「処理能力や生産性が有意に低下する」のだ。

 

つまり、「早くこなす」つもりで手足をはやく動かしているのに、逆に処理能力や生産性が低下しているせいで結局は「遅く」なってしまっているし、ミスも多い。最悪の結果なのだ。

 

これでもう、「手足をはやく動かして仕事を早くこなすぞ」と思う人はいないと思うが、残念ながら話はここで終わりではないのだ。

 

ぼくはこの文章の最初のほうで、「周りの人にも悪影響を及ぼす」と言った。なんと、「焦りは周りの人間にも伝染する」のだ。

 

つまり、職場で一人が手足をはやく動かしており、それを周りの人間が見ると、それを見た人の処理能力や生産性も低下してしまうのだ。

 

もう、足手まといでしかない。

 

ぼくもいろんな職場で言われた。

「ゆっくり歩くな。はやく歩け。(早歩きのほうがキビキビと、しっかり仕事をしているように見えるから)」

こういう謎のお言葉を。

 

はっきり言って、こう考えているのはひどく間違っているし、人に間違った指示を出す前に自分の勉強不足を顧みてほしいものだ。

 

そしてこういう職場は、(まあこれまでのどの職場もこんな感じだったけど...)、職場の雰囲気も悪い、ピリピリしている、最悪の環境だったように思う。

 

対処法は、はっきりとわかっていて、先程も述べたように「焦っている時には、あえて一呼吸おいたり、落ち着いているときにいつも自分がとるような行動をとる」ことだ。

 

もし、急がないといけない状況でも、手足はゆっくりと動かしたほうがいい。歩くのも、必ずゆっくりと歩こう。それどころか、なんなら数十秒か数分、手を止めてもいい。手を止めて目をつぶってゆっくりと呼吸をするのは、科学的にも理にかなった「脳の焦りを取り除く方法」だ。

 

このように焦ってる時に「逆に」ゆっくりとした行動をとることで、むしろ処理能力や生産性があがって結果仕事が早く進む。これは主観レベルでも客観レベル(=科学的根拠)でも明らかだ。

 

だから、いつも早歩きで「キビキビ動いてるぜ!」みたいな人間は対して仕事ができないどころか周りに悪影響を及ぼす、職場の「最悪の要素」でしかないので、そうだな、まずゆっくり時間をとって勉強するようにと助言してあげるといいかもしれない。

 

最後に、

文中で「仕事を早くこなしたいなら、すべきは「やらないことを決める」の一択だ。(これは詳しく後で述べるとして)」

 

と、言っていたが、後で述べるタイミングを見失った。

まあ、つまりスピードを早くするのではなくて、「そもそもこれはやらなくていい工程では?」というのを省くという話だ。仕事に無駄をなくすべき。

 

無駄をとことん省いて、残った「無駄でない部分」に関してはスピードよりもむしろ「ゆっくりと丁寧に行う」ほうが、逆に生産性があがるよっていう話でした。

 

最後に付け足したようになったけど、そういうことです。

 

ぼくはずっと、どこの職場にもいる「動きのはやい奴」が苦手だったが、やっぱりダメな奴だったんだな...

親が「勉強しなさい」と育てた子は勉強ができない子に育ち、「片付けなさい」と育てた子は片付けられない子になる。

ぼくは、ぼくの親がぼくに対しておこなってきた教育はことごとく間違いであったと思っている。悲しい話だが、そう思う。

 

ただ「ぼくの親はこれが間違っている!」とか言ってもどうしようもないので、あくまでも話を一般化して書こうと思う。別に自分の不遇を呪いたいわけじゃないのだ。どうせならそこから、学びを得たいのだ。

 

ぼくの親に限らず、親という生き物は「あれをしなさい、これをしなさい」と、子どもに命令ばかりする。これが親からすると、「この子が大人になってから困らないように」「この子のため」だとかいう、思い違いも甚だしい考えのもとでなされているので、すごくタチが悪い。

 

実際ぼくは思うのだが、「勉強しなさい」と言われ続けて育った子どもは、果たして勉強ができるようになったのか??

 

「使ったものはちゃんと片付けなさい」と言われて育った子どもは?

 

現にぼくは、もうストレスで鬱になるくらい、「片付けろ片付けろ」と言われて育ち、大人になって片付けの全くできない人間に育ちましたが? 片付けが「苦手」どころではなく「不可能」なレベル。もちろんぼくの一例が一般の話だと言うつもりはないけども。

 

いや、ぼくは思うのだが、

「"Aをしなさい"と命令され続けて育った子どもは、絶対"Aのできない子"に育つ」よ。

 

たとえば「勉強しなさい」と言われ続けた子ども、そもそも絶対に勉強を好きにならないよ。この時点ではい終了という感じなんだけど、さらに、自分から進んで勉強することはないだろうね。「やれと言われてやるもの」だから。

 

そして、なにより残念なのは、勉強をなぜやるのか?やったほうがいいのか?というのを子どもが自分の頭で考える機会を奪っている。だって、その考えに至るまでに、命令によって勉強するからね。

 

子どもが自分の頭で、勉強する理由を考えて、こうだから勉強はするべきだなとか、自分はこう思うから勉強はしたい!とか、一度自分の頭で結論を導けたなら、子どもは絶対に勉強する。なのに、その機会を奪って、親が「とりあえず何も考えず勉強はしておけ」と言わんばかりに、命令だけする。まあ正直これは最低だね。

 

まあもし、子どもが自分の頭で考えて「勉強、別にいらないじゃん」と思ったなら、それはもうその子にとって勉強はいらないんだ。子どもが自分の頭で出した結論を、親が邪魔するなんて許せないし、それなら勉強しなくていいと思う。それでその子が困ったなら、その子はまた自分の頭で考えるのさ。その時にやっぱり勉強が必要だと思ったなら勉強する。親からの命令で勉強するより、ずっと高いモチベーションで。

 

勉強に限らず、大事なのは「自分の頭で考える」ことで、「自分の頭で考えた結果、やりたいと思ったこと」なら、子どもは全力で取り組むさ。誰に何を言われなくとも。だから命令によって勉強させたりして、「なぜ勉強するのかを考える機会」を奪うのは、最低の悪手だということだ。

 

「片付け」だってそうだ。

 

命令されてどれだけの「考える機会」が奪われるか、想像しないのだろうか?

 

「散らかってきたな」と考え、

 

「これだけ散らかると、気分も良くないな」と考え、

 

「散らかっていると気分が良くないんだ。じゃあ散らかさないようにしないとな。」

 

など、様々なことを自分の頭で考えて、「片付けする必要性」を十分に理解して、「片付けするメリット」も理解する。こうなれば、言わずとも自発的に片付けるさ。誰だってそうじゃないか?

 

ぼくはこの機会がことごとく奪われて育ったな〜。別に自分の片付けができないのは親のせいだ!とかいまさら断罪するつもりはないけど。

 

「散らかってきたな」とも、「散らかると気分が良くないな」とも、「片付けるとこんなメリットがあるな」とも、考える機会がなかったし、考えたことがなかった。

 

だからいまぼくが片付けのできない人間になったのかは知らないが、少なくとも「ずっと命令され続けてきた」のはひどく悪影響だったと思う。

 

こういう理由で、「"Aをしなさい"と命令され続けて育った子どもは、絶対"Aのできない子"に育つ」と思う。Aについて考える機会を奪われているのだから。

 

だから、親も、「この子のため」とか、嘘ついてないで、認めなよ。「この子が将来困ろうとも、とりあえずいま物が邪魔だから片付けさせたい」「この子の将来は知ったこっちゃないが、とりあえず勉強させておきたい」という結局親のエゴ、自己中心主義を認めちゃいなよ。まさか、ほんとうに「この子のために命令してる」の?それはヤバイと思うよ。

ぼくが遺書を書く理由3

人が自殺する理由とか、自殺の直前にどんな心情だったかなど、当然知る由もない。本人に聞こうにも、死んじゃってるからだ。

 

もしかしたら、ずっと、「死のう、死のう」って考えていて、死ぬときも暗闇でロウソクの火がそっと消えるように、死んでいったのかもしれないし、

 

もしかしたら、「死のう」なんて考えてもなかったのに、ふと気づいたら踏切に足を踏み入れていたのかもしれない。

 

多くの人は前者の方を思い浮かべがちな気がするが、ぼくはむしろ、後者の方が多いんじゃないか?と思う。これはぼくの主観でしかなくて、こればかりは誰にもわからない。

 

ぼくは、この「遺書」で何度も述べているように、自殺する気はない。でも、後者の方 (=気づいたら自殺してしまっていた) という話なら、あり得ない話ではない。そうだろう。誰しも「まさか自殺なんて」と思っていても、突発的にどんな感情に襲われるかわからない。

 

もちろん、突発的に自殺を思い立ち、台所に向かい、包丁を手に取り、自らの腹を切る、なんていうことはない。そこまでの長いプロセスは無意識下で起こらない。

ただ、駅のホームや踏切、または屋上なんかどうだろう?一歩踏み出すだけで死ねる。簡単に。一歩という簡単すぎる一瞬の行為によって終わりの見えない絶望に終止符を打てるのだ。ぼくもいまこうして理性がはたらく内はそれでも自殺したいなど思わないが、その状況になれば果たしてどうだろうか。

 

そして、万が一でもそうなってしまった場合に、たとえば自分の最も大切な人物に、

「いや、違うんだ。自殺するつもりなんてこれっぽっちもなかった。なのに、気づいたら踏切に飛び込んでいて... 君と過ごした日々が辛かったんじゃない!むしろ最高に幸せだった... そこはわかってほしい!自分でもなぜこうなったかわからなくて...」

と、言いたいところだが、それは絶対にできない。死んだから。

大切な人に最後に自分のほんとうの気持ちを伝えることができないのだ。

そう、突発的に自殺をしたので「最後」など思いもしなかったのだから...。

 

「最後」を意識できれば、自分のほんとうの気持ちを、自分の大切な人に伝えられたかもしれないのに...

 

そう、だから、「遺書」を書いている。

だから、「自分のほんとうの気持ち」を書くことを意識して、こうしていまから遺書を書いているのだ。

 

これは、ぼくみたいな悲観的人間じゃなくとも、多少考えておいたほうがいいんじゃないか?とすら思う。「遺書を書く」ことを。

 

だって、「突発的な自殺」以外にも突発的な死はあり得るじゃん。みんな、当然のように。

 

そうなったとき、せめて、自分の大切な人にくらい、自分のほんとうの気持ちを知ってほしいな...。これは理屈じゃないな。ぼくが理屈じゃないこと言うのも珍しい。

 

そうだな、そしてぼくの話にしよう。

ぼくの最も大切な人は、言うまでもなく「妻」だ。ぼくにとって家族とは、「ぼくと妻と愛猫」だ。生まれ育った家庭よりもずっと。

(あ、もちろんこの先は増えているかもしれないな、"キッズ"が。)

 

そして、万が一でもぼくが、何を間違ってか「死」を選んでしまった場合、(もしくは偶然「死」を迎えた場合)、妻にはちゃんと伝えておきたい。

 

「君と出会えたのは最高だ。君と過ごせたのは最高だ。死の理由は決して君じゃない」

 

せめてこれだけは知っておいてもらわないと、納得いかない。

 

もし、旦那が自殺でもすれば、妻は少なくとも自分を責めてしまうんじゃないかな?

 

「わたしと過ごすのはほんとうは辛かった?」

 

「わたしが苦しみを取り除いてあげられなかった」

 

と。

 

そしてぼくの場合は決してそうじゃない。妻のおかげで多くの苦しみは希望に変わったし、多くの満たされない日々は満たされた。死の原因は全くの別だ。

 

癌患者を救えないのは、決してその妻(夫)のせいではないのだ。

 

もちろんこれは、万が一ぼくが死を迎えるときのために残すメッセージであって、ぼくが死のうとしてるのではないよ。ぼくはまだ君と生きるよ。

 

そう、ぼくは死にたいんだか死にたくないんだかよくわかんないな。

 

でも、そりゃみんなそうなんじゃないの?とも思う。

 

「死にたい」人も、そりゃ生きれるなら生きたいさ。生きれるって言っても、不安や絶望なく、自由に生きれるなら。

 

もちろん「生きたい」のに、「絶望や不安、恐怖から逃げたい」のほうが大きいから、もしくは"大きい"というより、それしか見えなくなってしまったから、結果的に「死」を選んでしまうのさ。みんな積極的に死にたいわけがないさ。

 

ぼくが死にたいのか死にたくないのかよくわからないように、誰しもそんな感じなんじゃ?そして気づいたら死を選んじゃってる。のでは。

 

だからぼくにも、誰にでも、突如「死」を選んでしまうことはあり得る。だから遺書を書く。