ぼくが遺書を書く理由

遺書と言っても自殺するつもりではないので、少なくとも慌てないでほしい。

 

余命宣告されているわけでもない。

 

そういう意味で、勘違いさせてしまうかもしれないことは、申し訳ないと思う。

 

だけど、僕は「遺書」が書きたい。

 

なんというか、当たり前すぎて言う必要ないかもしれないけど、いまどれほど健康でもいつ死ぬかわからない。

 

ぼくも100歳まで生きるかもしれないし、あと1年かも、あと数日の命かもわからない。

 

そうなると、いつ死んでも大丈夫なように、(大丈夫ではないけど)、遺書は残しておきたい。

 

もし死んだら、葬式なんてほんとに要らないので、遺書だけ読んでほしい。

 

だって、嫌じゃないか。ぼくがある日突然死して、あることないこと推測されて、誤解されて、都合のいいように解釈されていくなんて。

 

たとえば、ある男が離婚してから1年後に突然死したとしたら、「奥さんと離れて辛かったんだろうな」とか絶対に、勝手に、解釈される。たとえ全くの無関係の死でも。

 

いや、他人にどう思われるとか、全然どーでもいいんだけど、死後に関してはさ、他人の頭の中でしか自分は存在できないから、その唯一存在する「自分」が歪められる不快さは、放っておけない。

 

だから、ぼくは遺書を書く。

 

ぼくの死後、唯一存在する「自分」が可哀想な目にあわないために、書く。

 

「遺書」と聞いて反射的に「縁起でもない」とか、感情だけで判断しないでほしい。

 

不要な感情抜きにして、合理的じゃないか。遺書って。

 

だれの目も気にせずに遺書を書きたいから、このブログは匿名で書くし、とくに宣伝してみんなに見てもらおうということもしない。そうだな、このブログのQRコードでも、ぼくの鞄の中にでも入れておいて、死後にはちゃっかり見つけられるようにしておこうか。

 

読者向けとかじゃなく完全に「自分のためのもの」だから、正しいことを言うとも限らない。偏見もあるだろうが、配慮しない。とにかく自分の思想を残すことに専念したい。

 

ん?結局ただの日記じゃん?って?確かに、そうかもしれない。ただ、漠然と日記を書くのとは心持ちが少し違うんだ。ここはぼくの問題。

 

漠然とした日記は、これまで何度も試して、いつでも続かなかった。

 

だから、半ば日記は自分には向いてないじゃないか?って諦めていたけど、それでもいまこうしてブログを立ち上げようと思ったのは「遺書を書きたい」と思ったからだ。

 

「自分の死後にも残したいメッセージ」なので、うーん、目的や心持ちが全然違うかな。

 

そんなわけです。