ぼくが遺書を書く理由2

このタイトルでは以前にも書いたので、(昨日なんだけど)、「ぼくが遺書を書く理由」に"2"をつけて。

 

たとえ当然のこととして、「人はいつ死ぬかわからない、明日かもしれない」って言ったって、大抵の人は「じゃあ遺書を書こう」とはならないと思う。

 

それでもこうしてぼくが「書こう」と思ったのは、やっぱり他の人には無い理由がある。まだまだ書ききれていない「遺書を書く理由」が。

 

それは、端的に言って、「死にそう」だからだ。

 

これだけ言うと、前回の内容と矛盾してしまう。前回は「ぼくは遺書を書くからといって自殺するわけでも、余命宣告されたわけでもない」と言った。

 

だが、「死にそう」ではある。もう少しちゃんと言えば、「生き方」がわからない。

 

「生き方」は千差万別だと言うし、どんな生き方でもいいと、賢者は言う。ぼくもそう思う。

 

ただ、千差万別の生き方にも、「ルール」がある。

 

人生をゲームに例えると、どんな類のゲームにもルールがあり、むしろルールがゲームをゲームたらしめている。ではゲームに対する「ルール」は、人生に対する何に当たるのか?

 

法律か?国民の三大義務か?社会常識か?(それはどう考えても違うだろう)

 

人生を、この世界を支配するルールは「資本主義」だ。

 

法律など、資本主義の舞台である「市場」の力でいくらでも変えてしまう。

 

当然であるが、資本主義は普遍的な世界の原理というわけではなく、「いまの世界のルール」というわけだ。いまの世界に生まれたぼくは、このルールから逃れることはできない。革命を起こすか、ルールに従うか、時代が変わるのをパッシブに待つしかない。

 

ぼくは、革命を起こすより、時代が変わるのを待つより、ルールに従うのが最も合理的だと考えた。自分を犠牲にしてでも世界を変えたければ革命を起こすだろうが、ぼくはぼくが幸せでありたい。それならルールに従ったほうが幸せになる確率もスピードも早い。時代を待っている間に老いてしまうのも死んでしまうのもごめんだ。

 

こんな前置きはなくとも、資本主義のルールに従って生きるのが最も合理的だというのは今の世界なら人類のコンセンサスだろう。

 

そこでだ。資本主義に従って生きると決めたぼくは資本主義について知りたくなった。そして知った。資本主義を知るごとに、絶望を知ることになった。

 

圧倒的にぼくは「お金を稼ぐのに向いていない」と思い知ることになった。

 

お金を稼ぐ方法は、2つあるように見えて1つだ。

 

2つとは、従属と独立。

資本家に、企業に、雇い主に、国家に、配偶者に、親に、従属するか、

独立して商売をしてお金を稼ぐかだ。

 

が、さっき言ったように、お金を稼ぐ方法は2つあるように見えて1つ。

 

1つとは、「人のために何か価値あることをすること」。

 

まあこんなのはお金が生まれた歴史を見れば明らかだし、掘り下げれば行き着く先は原点だということだ。

 

そして、「"Giver"が成功する」だったり、「人を喜ばせることが好きな人間が成功する」だったり言われているのは、お金がそういうものだからだ。言わば当たり前なのだ。

 

するとぼくはこのようなルールが敷かれた世界でどれほど不利なんだろうと嘆く。

 

ぼくはこのことを学び、Giveすることを考えた。Giverについても学んだ。Bottom Giverにはならないように。

 

すると、病んだ。

 

Giverになろうとすればするほど、自分を騙している感覚に襲われるのだ。元来自分は他人に価値を与えるのが好きでもなんでもないんだ。これは決して悪くなんかない。だってぼくはTakeもしない。Matchも考えない。人とは距離を置いて生きたいのだ。

 

だから、資本主義のルール上で幸せを手にするため、他人に価値を与えようとしたが、いつしか「なぜ自分を騙してまで?」「そもそも他人に価値を与えることは崇高なことでもなんでもなく、ルールなだけだ」「なぜ生まれたときから、この世に存在するだけで他者貢献を強制させられるのだ?この世界は?」と、日に日に精神を病むことになった。

 

ぼくは、いや、人間なら誰しも、自分を騙すとまず心から死んでいくのだ。

 

では自分を騙さずに生きるか?他者に貢献せず、他人と距離をとり生きるか?

 

自分に正直に生きるのはとても心地いい。精神を病まずに済む。ただ、残念ながら他者貢献をしないのは「ルール違反」なのだ。

 

そうだろう。今の世界じゃ、生きているだけでお金が要るじゃないか。ここに存在するだけで。そしてお金がいるということは他人に価値を与えないといけないのだ。こういう意味で資本主義とはこの世界の厳格な「ルール」なのだ。

 

ぼくは路頭に迷う。自分を騙して他者に貢献する?他者に貢献せずに一人で生きる?←残念ながらそれは無理だとわかった。じゃあ、やっぱり従属したら?←結局病む。

 

これは、もう「詰み」でしかない。

 

人生が詰んでるとしか思えない。

 

生まれた時代のルールが自分に合ってないと、人は死ぬんだ。

 

黒人奴隷の時代に黒人として生まれてしまったらやっぱりもう自分の力ではどうしようもない。

 

ナチの時代にドイツでユダヤ人として、亡命するお金も持っていない家に生まれてしまったら、時代を呪うしかない。

 

ぼくだってそんな気分だ。大袈裟か大袈裟じゃないかなんてどうでもいい。これは遺書なんだからぼくの気持ちが伝われば十分だ。ぼくはそんな気持ちなんだ、異論は認めない。ってことだ。

 

だから、合わない資本主義ルールの時代に生まれ、死を意識せずにはいられない。他の人間より、死を意識していることだろう。だから遺書を書いている。

 

まあそもそも死ぬことは世界にとって問題ではない。世界はある種が、ある遺伝子が、死ぬことによって進化していく。だからぼくが時代に合わなくて死のうが、特別にそれは悲劇というわけでもない。だから、気楽に遺書でも書いているのさ。気楽ってのは嘘だけど。いつ死んでもいいように。