「自責の念」は、注意して使った方がいい

タイトルからもわかるように、「自責の念」をまったく否定しない。ただ、注意して使わないと、逆効果だって話。

 

ところで「自責の念」とは、簡単に言って、全て「自分の責任」と考えることだ。

 

この考えの素晴らしいことは、自分の人生を自分でコントロールできることだ。

 

生まれた家庭環境を呪っても仕方ないし、結局は自分が変えるか逃げるか、どちらにせよ「行動」しなくちゃいけないし、

鳩にフンを落とされたって、当然、鳩に怒ってもなににもならない。運のせいにする人もいるが、結局は、自分以外のなにかのせいにして事態が良くなることはないのだ。結局は自分が電線の下を歩かないようにするとか、単純に頭上に注意を払うとか、近世の英国のように傘をさすか?自分が動かないとどうしようもない。

 

どうしようもないならすべて自分の責任と捉えるのが合理的じゃないか。無駄に他人を恨んだりする暇があったら自分で行動すればいいのだ。改善すればいいのだ。

 

さらに言えば、自分の責任と「捉える」というより、自分の責任なのだ。そもそも。人生はすべて自分の行動の結果なのだ。

 

ぼくは、「自責の念」には基本的に大賛成なのだ。この考え方の基礎にはなんの疑問もないし、ぼくもこういう考え方をしている。

 

ただ、正しく使いましょうねっていう話。包丁も銃も、正しく使わないと人の命を、あるいは自分の命をも奪ってしまうように。

 

「自責の念」を取り入れるときにやってはいけないのは、自分を責めることだ。それと、客観的事実から目を逸らすことだ。

 

「自責の念」というくらいなのに、矛盾しているようにしか思えないだろう。そもそも「自責の念」という言葉を廃止したほうがいい。「自己選択」という言葉が近い。

 

家庭や職場など、環境に苦しんでいる場合、自責の念の場合「自分がその環境を選んでいる」「自分が逃げ出さないことを選んでいる」と考える。

 

自責の念を誤り、自分を責めるとどうなるだろうか。

 

毒親や、上司に苦しめられようと、「自分が悪いのだ。親が(上司が)悪いのではないのだ...」と考えてしまう。

 

これのどこが誤っているかというと、

まずは自分は決して「悪く」ない。「選択している」だけだ。

それと、親や上司を悪くないと曲解する必要はなく、客観的事実として毒親は悪いし、ダメ上司はダメなのだ。

 

話がややこしくなってきたが、

 

「客観的事実は客観的に判断し、これからの行動は自分で選択できる」

 

と考えるのがいいだろう。

 

明らかに上司が間違っているのに、自責の念で生きようとして「自分のせいで...」と思う必要はまったくない。上司が悪いなら上司が悪い。これは客観的事実だ。大事なのは次。「上司が悪いから自分はなにも行動しない」のか「上司が悪い。自分がこれから選択できるのは、逃げるか、立ち向かうか...」と考えるべきなのだ。

 

自責の念を語る多くの人は、単に「全部自分のせいにする」とだけ言う。それだけの言葉では、使い方を誤ったときに危険なのだ。

包丁の使い方として「刺す。切る。」だけを言っているようなものだ。

 

客観的に他人のせいだったり環境が原因だったりするのを無理矢理自分の責任にしなくていい。これからの自分の行動は自分の選択だし、自分の責任だ。と思えばいい。

 

だって環境が原因なのに、客観的判断を誤り「自分のせい」にしてしまうと、むしろ解決は遠のくじゃないか。環境が原因ならそう判断して、自分でこれから選択していくだけだ。

 

そういう意味で「環境のせいにするな」とか簡単に言う人は、あまりにも言葉足らずだと思う。環境のせいかもしれないじゃん。

 

結論。

 

・自責の念は基本的に持つべき。なにかのせいにしてどうしようもないことを言ってる暇があったら自分が行動するべき

 

・ただ客観的事実を曲解して自分のせいにするのは良くない。環境が悪いなら環境が悪い。

 

・自分は悪くない。悪いとか悪くないとかじゃない。

 

・何のせいとか、原因に関しては客観的に判断すべしだけど、自分の行動はこれまでも、これからも、自分が選択してきたこと。じゃあ次はなにを選択するのか考えよう。

 

・「自責の念」という言葉も悪い。廃止。「自分の人生は自分で選択できる」と考えよう。

 

自己啓発っぽくなったけど自己啓発でもなんでもないよ。ぼくが生前何を考えていたのかをぼくの死後に伝えたいだけだよ。はい、それでは。