「ダサい」という言葉に頼って思考停止を隠すな
タイトルでは食いつきにくい概念的な表現を避けるためにこう書きましたが、ほんとうに言いたいことは、
「自分の思考力や語彙力の少なさ、しいては思考停止状態に陥っているのを隠すために抽象的ワード(「ダサい」とか)を利用するな」ということ。
ほんとよく見かける、「〜はダサい」とか言ってる人。自分の思考力が行き詰まったのを隠したいだけでしょ?って思う。
例を挙げると、ある有名(?)アーティストは「アートをやるならビジネス的観点を持つべき。ビジネス的観点の抜けたアートはダサい」と言っていた。別にどう考えようと自由だしこれが間違ってるとかどうとかを議論するつもりはない。(少なくともぼくは賛成しないけど)
ぼくは逆に、そういう人=抽象的言葉に逃げてる人を「ダサい」と思うけど「ダサい」と言うだけじゃ明らかに表現が足りないし何も伝わらないし、ダメだと思うならどこがダメかを言う。自分の思考が追いついていないなら「ダサい」とかそういうこと言う前に自分の頭で考える。
アートにビジネス的観点を取り入れるべきかどうかは正直どうだっていい。ぼくはこの人とは全く違う考えだけど、ぼくがどう考えていようとどうでもいい。この人がぼくと違う意見を持っているのもどうでもいい。
ただ、ビジネス的観点を取り入れるべきと思っているならなぜそう思うのかを、まず自分の頭で理解する必要がある。自分はなぜ、アートにはビジネス的観点が必要だと思っているのかを。これは主張するしない以前に、最低限じゃないか。それを、考えるのが面倒なのか、抽象的言葉に逃げることで具体的反論を避けようとしているのか知らないが、「ダサい」という言葉で片付けようとしている。正直、自分でも自分の考えてることわかってないでしょ?としか思わなかった。
思考には流れがある。
①自分の頭で考えて生き、手に入れたピースを組み合わせて着地点(結論)にたどり着く。
②他人にもらったか、もしくはなんとなく浮かび上がった結論を盲信し、そこに繋がりそうなピースをテキトーに拾い集める。
考えずに思考停止したまま、流されるように生きると、②のような思考回路になる。
そして②の人間は、ピースを必死に集めるが、なにせ自分の頭で考えていないので、その結論がなぜ正しいのかもよくわからない。よくわからないが結論は正しいんだと主張したい。だから、抽象的言葉に逃げる。「〜はダサい」と言うのはそういうプロセスを経ている。
よくわからないまま結論を急がず、自分の思考と向き合うべきだ。結論を急ぐと抽象的言葉に逃げることになる。思考停止の人間には響くかもしれないが、そこに隠れている理論の欠如やあなた自身の思考停止は、ちゃんとバレます。