天才ロックバンド「パスピエ」の「遊びを誘発する音作り」
本日は妻と、尊敬してやまないロックバンド「パスピエ」のライブを聴きにいってきた。
ぼくも妻も、パスピエは大好きなのだ。
パスピエのすごいところ、今までにないところは、「遊びを誘発する」ところ。とぼくは勝手に分析している。
「遊ぶ」のはどのバンドだってできるが、パスピエの楽曲は「遊び」が「自然に生まれてくる」「誘発される」ようにデザインされているように思う。
なにがそうさせているのか。それはずばり、天才「成田ハネダ」のキーボードプレイにある。
彼のプレイは、わかりやすく言うなら「ギターの役割もベースの役割も、一人でやっちゃってる」のだ。
バンド全体の音の「土台」になる部分も、リードギターのようにリフを入れたりメロディを弾いたりするのも、全部もう成田ハネダが一人でやっちゃってる。
じゃあベース、ギターはどうなるかと言うと、「遊べる」。
ベースは頻繁にリフを入れたり、1度以外の音で浮いたベースを弾いたり、とにかく「遊べる」。ギターも、より自由になれる。
このようにデザインされていると思う。というか、役割をキーボードが担ってくれているなら、残るのは「遊び」しかない。
これは、「仕事をしなくてよくなったから、遊ぶ」ような感じと似ている。
協力な下支えのキーボードがいるので、ベースやギターは遊びにシフトできるのだ。
似ているよな、人間も、家事をしてくれるお手伝いさんがいたら遊ぶ時間ができるし、働かなくても不動産収入や印税などがあれば遊ぶ余裕ができるし、まあ成田ハネダは下支えしながらも強力な主役でもあるからまた面白いのだけど。
ぼくもじつは作曲をしており、もっと制作に打ち込みたいものだが、生きる資金を稼ぎながら身の回りの家事もやって、満足に創作活動をするなど、正直言って無理に近い。
世の作曲家たちはどうしていたのだろう。
昔、貴族階級ならば十分に自身の芸術と向き合う時間も余裕もあるのかもしれないな。
もしくは現代なら、学生の間(親に食べさせてもらっている間)にずば抜けた才能によって、市場で成功し、「稼ぎながら生活しつつ創作」という過程を経てないパターンもあるな。
あとは、そりゃ働きながらも、生活、家事をこなしながらも創作を続けるパターンもあるかもしれないけど、ま〜あだいぶ無理ゲーだぜ?「ただ働いて、ただ生活する」だけでも無理ゲーになってきた世の中なのに。
うーん、じゃあやっぱり創作活動は、親に食べさせてもらっている間がタイムリミット?ということになる?
それは多くの場合、「学生の間に芽がでなければ終了」と同じ意味になるんだよ?(多くの場合はね。)
そんなの無理ゲーじゃね?
資本主義の世界は「アート」と「ビジネス」(これらは対極だとぼくは考えている) において、「ビジネスに傾きすぎている」からなあ、アートするのは厳しいすねぇ今の時代...
現在進行形で、類稀なる才能の持ち主が、「労働」なんていうしょーもないものによって、芽を潰されてるかもしれないよ?
その人はほんとうは働きたくもないのに、才能もめちゃめちゃあるのに、生きるために仕方なく働いて才能をどんどん無駄にしてしまっているかもしれない。
そんな世界どーよ?
思考停止の人間はよく「芽が出ないのはその人にほんとうに才能がないから」「そこまでの才能だった」とか言うよね... 定番の思考停止っぷりで面白いけどさ..
まあこういう↑意見の反論は、また別のエントリでしてもいい。暇だったら今度しよう。
だいぶ話が逸れたので。これ以上枝葉を伸ばして行方不明にならないように...
とにかく、パスピエの音作りはこうして「遊び」が生まれて、自由な音楽が出来上がっているのだという話。めっちゃ話が逸れて忘れてしまってたかもしれないが。