死にたい、苦しい、消えたい、という感じ。

「遺書を書く」と言いながらも、自己啓発的な前向きの文章も書くし、一見「こいつは案外元気じゃないか」と思えるような遺書内容である。

 

だが、断じて言いたいが、ぼくは毎日のように「死にたい、苦しい、消えたい」と思っている。ほんとうだ。

 

ぼくが心底困っている"風潮"として、「死にたい人間や、苦しんでいる人間は、何故か"一括り"にされる」というものがある。

 

「死」という究極のハナシを目前に、人は「ひとそれぞれ」という当然のことを忘れてしまうのだ。

 

「ほんとうに死にたい人間はこんな前向きな文章書けないよ」

 

「ほんとうに死にたい人間は普通に会話すらできないよ、君は普通に会話できるじゃん」

 

「ほんとうに死にたい人間は笑わないよ、君は大丈夫だよ」

 

五月蝿い。ぼくはそれでも死にたいと思うのだ。前向きな文章も書くし別に会話もできるし楽しいことがあったら笑うが、死にたいと感じるのだ。苦しいのだ。一般化した君の偏見でぼくの苦しみを語るな。

 

以下、こんなのもよ〜く聞く。実際言われたこともある。

 

「君は障害があるようには見えないよ、障害がある人を知ってるけど、全然違うよ。君は大丈夫」

 

「君はうつ病じゃないよ。うつ病になった人は会話すらままならないし、君みたいに外出したりできないよ。君は大丈夫。もっと頑張ろう」

 

五月蝿い。おそらく善意のつもりで言っているのが余計にタチが悪い。

 

障害がひとそれぞれで一括りできないという当然の話をなぜ度外視している?発達障害の人間なんてハタから見ればほんとうに健常者と変わらないぜ?本人だけが苦しむのさ。苦しいけど、身を削って頑張れば、表面上レベルでは健常者と変わらないように見えるから、余計に生き辛い。外に見えてないから、特別助けてももらえず、理解も得られず、自分だけが見えない水中でバタ足してるのさ。必死に沈まないように。

 

うつ病だって、双極性障害や非定形うつ病だってあるんだぜ?まさか老害おっさんたちは知らないんじゃないの?

 

「あいつは"うつ病"と言いながら、自分の好きなことだけ楽しそうにやってる!あいつは仮病だ!甘えてるだけだ!」

 

「あいつに前会ったら普通に元気そうだった。元気ならさっさと働け!」

 

とか本気で思ってる人いる。

 

まあこんな奴らに理解されたいなんて思わないし、勝手に思っておけという感じだけど、せめて何も知らないなら黙っておいてほしい。己の不勉強ゆえの偏見によって、苦しんでる人をこれ以上苦しめるなんて狂気の沙汰じゃない。

 

 

だから、誰も人の苦しみを勝手に判断しないでほしい。その人が苦しいなら苦しい。「お前の労働環境なんて超ホワイトじゃん!おれの職場なんて...」とかまじで言うな。もう一度言うが、その人が苦しいなら苦しい、以上。なのだ。

 

だからぼくは、正直周りからみたら"死にたさ"なんてまったく感じられないかもしれない。積極的に外出して公園とか行くし、好きなこともいっぱいある。読書や音楽など。楽しいときは普通に楽しい。だけど、それでもほんとうに"苦しい"といつも感じているし、「死にたい」と感じることもあるのだ。

 

人の苦しみを勝手な尺度で測ってはいけない。