死にたい、苦しい、消えたい、という感じ。
「遺書を書く」と言いながらも、自己啓発的な前向きの文章も書くし、一見「こいつは案外元気じゃないか」と思えるような遺書内容である。
だが、断じて言いたいが、ぼくは毎日のように「死にたい、苦しい、消えたい」と思っている。ほんとうだ。
ぼくが心底困っている"風潮"として、「死にたい人間や、苦しんでいる人間は、何故か"一括り"にされる」というものがある。
「死」という究極のハナシを目前に、人は「ひとそれぞれ」という当然のことを忘れてしまうのだ。
「ほんとうに死にたい人間はこんな前向きな文章書けないよ」
「ほんとうに死にたい人間は普通に会話すらできないよ、君は普通に会話できるじゃん」
「ほんとうに死にたい人間は笑わないよ、君は大丈夫だよ」
五月蝿い。ぼくはそれでも死にたいと思うのだ。前向きな文章も書くし別に会話もできるし楽しいことがあったら笑うが、死にたいと感じるのだ。苦しいのだ。一般化した君の偏見でぼくの苦しみを語るな。
以下、こんなのもよ〜く聞く。実際言われたこともある。
「君は障害があるようには見えないよ、障害がある人を知ってるけど、全然違うよ。君は大丈夫」
「君はうつ病じゃないよ。うつ病になった人は会話すらままならないし、君みたいに外出したりできないよ。君は大丈夫。もっと頑張ろう」
五月蝿い。おそらく善意のつもりで言っているのが余計にタチが悪い。
障害がひとそれぞれで一括りできないという当然の話をなぜ度外視している?発達障害の人間なんてハタから見ればほんとうに健常者と変わらないぜ?本人だけが苦しむのさ。苦しいけど、身を削って頑張れば、表面上レベルでは健常者と変わらないように見えるから、余計に生き辛い。外に見えてないから、特別助けてももらえず、理解も得られず、自分だけが見えない水中でバタ足してるのさ。必死に沈まないように。
うつ病だって、双極性障害や非定形うつ病だってあるんだぜ?まさか老害おっさんたちは知らないんじゃないの?
「あいつは"うつ病"と言いながら、自分の好きなことだけ楽しそうにやってる!あいつは仮病だ!甘えてるだけだ!」
「あいつに前会ったら普通に元気そうだった。元気ならさっさと働け!」
とか本気で思ってる人いる。
まあこんな奴らに理解されたいなんて思わないし、勝手に思っておけという感じだけど、せめて何も知らないなら黙っておいてほしい。己の不勉強ゆえの偏見によって、苦しんでる人をこれ以上苦しめるなんて狂気の沙汰じゃない。
だから、誰も人の苦しみを勝手に判断しないでほしい。その人が苦しいなら苦しい。「お前の労働環境なんて超ホワイトじゃん!おれの職場なんて...」とかまじで言うな。もう一度言うが、その人が苦しいなら苦しい、以上。なのだ。
だからぼくは、正直周りからみたら"死にたさ"なんてまったく感じられないかもしれない。積極的に外出して公園とか行くし、好きなこともいっぱいある。読書や音楽など。楽しいときは普通に楽しい。だけど、それでもほんとうに"苦しい"といつも感じているし、「死にたい」と感じることもあるのだ。
人の苦しみを勝手な尺度で測ってはいけない。
天才ロックバンド「パスピエ」の「遊びを誘発する音作り」
本日は妻と、尊敬してやまないロックバンド「パスピエ」のライブを聴きにいってきた。
ぼくも妻も、パスピエは大好きなのだ。
パスピエのすごいところ、今までにないところは、「遊びを誘発する」ところ。とぼくは勝手に分析している。
「遊ぶ」のはどのバンドだってできるが、パスピエの楽曲は「遊び」が「自然に生まれてくる」「誘発される」ようにデザインされているように思う。
なにがそうさせているのか。それはずばり、天才「成田ハネダ」のキーボードプレイにある。
彼のプレイは、わかりやすく言うなら「ギターの役割もベースの役割も、一人でやっちゃってる」のだ。
バンド全体の音の「土台」になる部分も、リードギターのようにリフを入れたりメロディを弾いたりするのも、全部もう成田ハネダが一人でやっちゃってる。
じゃあベース、ギターはどうなるかと言うと、「遊べる」。
ベースは頻繁にリフを入れたり、1度以外の音で浮いたベースを弾いたり、とにかく「遊べる」。ギターも、より自由になれる。
このようにデザインされていると思う。というか、役割をキーボードが担ってくれているなら、残るのは「遊び」しかない。
これは、「仕事をしなくてよくなったから、遊ぶ」ような感じと似ている。
協力な下支えのキーボードがいるので、ベースやギターは遊びにシフトできるのだ。
似ているよな、人間も、家事をしてくれるお手伝いさんがいたら遊ぶ時間ができるし、働かなくても不動産収入や印税などがあれば遊ぶ余裕ができるし、まあ成田ハネダは下支えしながらも強力な主役でもあるからまた面白いのだけど。
ぼくもじつは作曲をしており、もっと制作に打ち込みたいものだが、生きる資金を稼ぎながら身の回りの家事もやって、満足に創作活動をするなど、正直言って無理に近い。
世の作曲家たちはどうしていたのだろう。
昔、貴族階級ならば十分に自身の芸術と向き合う時間も余裕もあるのかもしれないな。
もしくは現代なら、学生の間(親に食べさせてもらっている間)にずば抜けた才能によって、市場で成功し、「稼ぎながら生活しつつ創作」という過程を経てないパターンもあるな。
あとは、そりゃ働きながらも、生活、家事をこなしながらも創作を続けるパターンもあるかもしれないけど、ま〜あだいぶ無理ゲーだぜ?「ただ働いて、ただ生活する」だけでも無理ゲーになってきた世の中なのに。
うーん、じゃあやっぱり創作活動は、親に食べさせてもらっている間がタイムリミット?ということになる?
それは多くの場合、「学生の間に芽がでなければ終了」と同じ意味になるんだよ?(多くの場合はね。)
そんなの無理ゲーじゃね?
資本主義の世界は「アート」と「ビジネス」(これらは対極だとぼくは考えている) において、「ビジネスに傾きすぎている」からなあ、アートするのは厳しいすねぇ今の時代...
現在進行形で、類稀なる才能の持ち主が、「労働」なんていうしょーもないものによって、芽を潰されてるかもしれないよ?
その人はほんとうは働きたくもないのに、才能もめちゃめちゃあるのに、生きるために仕方なく働いて才能をどんどん無駄にしてしまっているかもしれない。
そんな世界どーよ?
思考停止の人間はよく「芽が出ないのはその人にほんとうに才能がないから」「そこまでの才能だった」とか言うよね... 定番の思考停止っぷりで面白いけどさ..
まあこういう↑意見の反論は、また別のエントリでしてもいい。暇だったら今度しよう。
だいぶ話が逸れたので。これ以上枝葉を伸ばして行方不明にならないように...
とにかく、パスピエの音作りはこうして「遊び」が生まれて、自由な音楽が出来上がっているのだという話。めっちゃ話が逸れて忘れてしまってたかもしれないが。
「ダサい」という言葉に頼って思考停止を隠すな
タイトルでは食いつきにくい概念的な表現を避けるためにこう書きましたが、ほんとうに言いたいことは、
「自分の思考力や語彙力の少なさ、しいては思考停止状態に陥っているのを隠すために抽象的ワード(「ダサい」とか)を利用するな」ということ。
ほんとよく見かける、「〜はダサい」とか言ってる人。自分の思考力が行き詰まったのを隠したいだけでしょ?って思う。
例を挙げると、ある有名(?)アーティストは「アートをやるならビジネス的観点を持つべき。ビジネス的観点の抜けたアートはダサい」と言っていた。別にどう考えようと自由だしこれが間違ってるとかどうとかを議論するつもりはない。(少なくともぼくは賛成しないけど)
ぼくは逆に、そういう人=抽象的言葉に逃げてる人を「ダサい」と思うけど「ダサい」と言うだけじゃ明らかに表現が足りないし何も伝わらないし、ダメだと思うならどこがダメかを言う。自分の思考が追いついていないなら「ダサい」とかそういうこと言う前に自分の頭で考える。
アートにビジネス的観点を取り入れるべきかどうかは正直どうだっていい。ぼくはこの人とは全く違う考えだけど、ぼくがどう考えていようとどうでもいい。この人がぼくと違う意見を持っているのもどうでもいい。
ただ、ビジネス的観点を取り入れるべきと思っているならなぜそう思うのかを、まず自分の頭で理解する必要がある。自分はなぜ、アートにはビジネス的観点が必要だと思っているのかを。これは主張するしない以前に、最低限じゃないか。それを、考えるのが面倒なのか、抽象的言葉に逃げることで具体的反論を避けようとしているのか知らないが、「ダサい」という言葉で片付けようとしている。正直、自分でも自分の考えてることわかってないでしょ?としか思わなかった。
思考には流れがある。
①自分の頭で考えて生き、手に入れたピースを組み合わせて着地点(結論)にたどり着く。
②他人にもらったか、もしくはなんとなく浮かび上がった結論を盲信し、そこに繋がりそうなピースをテキトーに拾い集める。
考えずに思考停止したまま、流されるように生きると、②のような思考回路になる。
そして②の人間は、ピースを必死に集めるが、なにせ自分の頭で考えていないので、その結論がなぜ正しいのかもよくわからない。よくわからないが結論は正しいんだと主張したい。だから、抽象的言葉に逃げる。「〜はダサい」と言うのはそういうプロセスを経ている。
よくわからないまま結論を急がず、自分の思考と向き合うべきだ。結論を急ぐと抽象的言葉に逃げることになる。思考停止の人間には響くかもしれないが、そこに隠れている理論の欠如やあなた自身の思考停止は、ちゃんとバレます。
「自責の念」は、注意して使った方がいい
タイトルからもわかるように、「自責の念」をまったく否定しない。ただ、注意して使わないと、逆効果だって話。
ところで「自責の念」とは、簡単に言って、全て「自分の責任」と考えることだ。
この考えの素晴らしいことは、自分の人生を自分でコントロールできることだ。
生まれた家庭環境を呪っても仕方ないし、結局は自分が変えるか逃げるか、どちらにせよ「行動」しなくちゃいけないし、
鳩にフンを落とされたって、当然、鳩に怒ってもなににもならない。運のせいにする人もいるが、結局は、自分以外のなにかのせいにして事態が良くなることはないのだ。結局は自分が電線の下を歩かないようにするとか、単純に頭上に注意を払うとか、近世の英国のように傘をさすか?自分が動かないとどうしようもない。
どうしようもないならすべて自分の責任と捉えるのが合理的じゃないか。無駄に他人を恨んだりする暇があったら自分で行動すればいいのだ。改善すればいいのだ。
さらに言えば、自分の責任と「捉える」というより、自分の責任なのだ。そもそも。人生はすべて自分の行動の結果なのだ。
ぼくは、「自責の念」には基本的に大賛成なのだ。この考え方の基礎にはなんの疑問もないし、ぼくもこういう考え方をしている。
ただ、正しく使いましょうねっていう話。包丁も銃も、正しく使わないと人の命を、あるいは自分の命をも奪ってしまうように。
「自責の念」を取り入れるときにやってはいけないのは、自分を責めることだ。それと、客観的事実から目を逸らすことだ。
「自責の念」というくらいなのに、矛盾しているようにしか思えないだろう。そもそも「自責の念」という言葉を廃止したほうがいい。「自己選択」という言葉が近い。
家庭や職場など、環境に苦しんでいる場合、自責の念の場合「自分がその環境を選んでいる」「自分が逃げ出さないことを選んでいる」と考える。
自責の念を誤り、自分を責めるとどうなるだろうか。
毒親や、上司に苦しめられようと、「自分が悪いのだ。親が(上司が)悪いのではないのだ...」と考えてしまう。
これのどこが誤っているかというと、
まずは自分は決して「悪く」ない。「選択している」だけだ。
それと、親や上司を悪くないと曲解する必要はなく、客観的事実として毒親は悪いし、ダメ上司はダメなのだ。
話がややこしくなってきたが、
「客観的事実は客観的に判断し、これからの行動は自分で選択できる」
と考えるのがいいだろう。
明らかに上司が間違っているのに、自責の念で生きようとして「自分のせいで...」と思う必要はまったくない。上司が悪いなら上司が悪い。これは客観的事実だ。大事なのは次。「上司が悪いから自分はなにも行動しない」のか「上司が悪い。自分がこれから選択できるのは、逃げるか、立ち向かうか...」と考えるべきなのだ。
自責の念を語る多くの人は、単に「全部自分のせいにする」とだけ言う。それだけの言葉では、使い方を誤ったときに危険なのだ。
包丁の使い方として「刺す。切る。」だけを言っているようなものだ。
客観的に他人のせいだったり環境が原因だったりするのを無理矢理自分の責任にしなくていい。これからの自分の行動は自分の選択だし、自分の責任だ。と思えばいい。
だって環境が原因なのに、客観的判断を誤り「自分のせい」にしてしまうと、むしろ解決は遠のくじゃないか。環境が原因ならそう判断して、自分でこれから選択していくだけだ。
そういう意味で「環境のせいにするな」とか簡単に言う人は、あまりにも言葉足らずだと思う。環境のせいかもしれないじゃん。
結論。
・自責の念は基本的に持つべき。なにかのせいにしてどうしようもないことを言ってる暇があったら自分が行動するべき
・ただ客観的事実を曲解して自分のせいにするのは良くない。環境が悪いなら環境が悪い。
・自分は悪くない。悪いとか悪くないとかじゃない。
・何のせいとか、原因に関しては客観的に判断すべしだけど、自分の行動はこれまでも、これからも、自分が選択してきたこと。じゃあ次はなにを選択するのか考えよう。
・「自責の念」という言葉も悪い。廃止。「自分の人生は自分で選択できる」と考えよう。
自己啓発っぽくなったけど自己啓発でもなんでもないよ。ぼくが生前何を考えていたのかをぼくの死後に伝えたいだけだよ。はい、それでは。
ぼくが遺書を書く理由2
このタイトルでは以前にも書いたので、(昨日なんだけど)、「ぼくが遺書を書く理由」に"2"をつけて。
たとえ当然のこととして、「人はいつ死ぬかわからない、明日かもしれない」って言ったって、大抵の人は「じゃあ遺書を書こう」とはならないと思う。
それでもこうしてぼくが「書こう」と思ったのは、やっぱり他の人には無い理由がある。まだまだ書ききれていない「遺書を書く理由」が。
それは、端的に言って、「死にそう」だからだ。
これだけ言うと、前回の内容と矛盾してしまう。前回は「ぼくは遺書を書くからといって自殺するわけでも、余命宣告されたわけでもない」と言った。
だが、「死にそう」ではある。もう少しちゃんと言えば、「生き方」がわからない。
「生き方」は千差万別だと言うし、どんな生き方でもいいと、賢者は言う。ぼくもそう思う。
ただ、千差万別の生き方にも、「ルール」がある。
人生をゲームに例えると、どんな類のゲームにもルールがあり、むしろルールがゲームをゲームたらしめている。ではゲームに対する「ルール」は、人生に対する何に当たるのか?
法律か?国民の三大義務か?社会常識か?(それはどう考えても違うだろう)
人生を、この世界を支配するルールは「資本主義」だ。
法律など、資本主義の舞台である「市場」の力でいくらでも変えてしまう。
当然であるが、資本主義は普遍的な世界の原理というわけではなく、「いまの世界のルール」というわけだ。いまの世界に生まれたぼくは、このルールから逃れることはできない。革命を起こすか、ルールに従うか、時代が変わるのをパッシブに待つしかない。
ぼくは、革命を起こすより、時代が変わるのを待つより、ルールに従うのが最も合理的だと考えた。自分を犠牲にしてでも世界を変えたければ革命を起こすだろうが、ぼくはぼくが幸せでありたい。それならルールに従ったほうが幸せになる確率もスピードも早い。時代を待っている間に老いてしまうのも死んでしまうのもごめんだ。
こんな前置きはなくとも、資本主義のルールに従って生きるのが最も合理的だというのは今の世界なら人類のコンセンサスだろう。
そこでだ。資本主義に従って生きると決めたぼくは資本主義について知りたくなった。そして知った。資本主義を知るごとに、絶望を知ることになった。
圧倒的にぼくは「お金を稼ぐのに向いていない」と思い知ることになった。
お金を稼ぐ方法は、2つあるように見えて1つだ。
2つとは、従属と独立。
資本家に、企業に、雇い主に、国家に、配偶者に、親に、従属するか、
独立して商売をしてお金を稼ぐかだ。
が、さっき言ったように、お金を稼ぐ方法は2つあるように見えて1つ。
1つとは、「人のために何か価値あることをすること」。
まあこんなのはお金が生まれた歴史を見れば明らかだし、掘り下げれば行き着く先は原点だということだ。
そして、「"Giver"が成功する」だったり、「人を喜ばせることが好きな人間が成功する」だったり言われているのは、お金がそういうものだからだ。言わば当たり前なのだ。
するとぼくはこのようなルールが敷かれた世界でどれほど不利なんだろうと嘆く。
ぼくはこのことを学び、Giveすることを考えた。Giverについても学んだ。Bottom Giverにはならないように。
すると、病んだ。
Giverになろうとすればするほど、自分を騙している感覚に襲われるのだ。元来自分は他人に価値を与えるのが好きでもなんでもないんだ。これは決して悪くなんかない。だってぼくはTakeもしない。Matchも考えない。人とは距離を置いて生きたいのだ。
だから、資本主義のルール上で幸せを手にするため、他人に価値を与えようとしたが、いつしか「なぜ自分を騙してまで?」「そもそも他人に価値を与えることは崇高なことでもなんでもなく、ルールなだけだ」「なぜ生まれたときから、この世に存在するだけで他者貢献を強制させられるのだ?この世界は?」と、日に日に精神を病むことになった。
ぼくは、いや、人間なら誰しも、自分を騙すとまず心から死んでいくのだ。
では自分を騙さずに生きるか?他者に貢献せず、他人と距離をとり生きるか?
自分に正直に生きるのはとても心地いい。精神を病まずに済む。ただ、残念ながら他者貢献をしないのは「ルール違反」なのだ。
そうだろう。今の世界じゃ、生きているだけでお金が要るじゃないか。ここに存在するだけで。そしてお金がいるということは他人に価値を与えないといけないのだ。こういう意味で資本主義とはこの世界の厳格な「ルール」なのだ。
ぼくは路頭に迷う。自分を騙して他者に貢献する?他者に貢献せずに一人で生きる?←残念ながらそれは無理だとわかった。じゃあ、やっぱり従属したら?←結局病む。
これは、もう「詰み」でしかない。
人生が詰んでるとしか思えない。
生まれた時代のルールが自分に合ってないと、人は死ぬんだ。
黒人奴隷の時代に黒人として生まれてしまったらやっぱりもう自分の力ではどうしようもない。
ナチの時代にドイツでユダヤ人として、亡命するお金も持っていない家に生まれてしまったら、時代を呪うしかない。
ぼくだってそんな気分だ。大袈裟か大袈裟じゃないかなんてどうでもいい。これは遺書なんだからぼくの気持ちが伝われば十分だ。ぼくはそんな気持ちなんだ、異論は認めない。ってことだ。
だから、合わない資本主義ルールの時代に生まれ、死を意識せずにはいられない。他の人間より、死を意識していることだろう。だから遺書を書いている。
まあそもそも死ぬことは世界にとって問題ではない。世界はある種が、ある遺伝子が、死ぬことによって進化していく。だからぼくが時代に合わなくて死のうが、特別にそれは悲劇というわけでもない。だから、気楽に遺書でも書いているのさ。気楽ってのは嘘だけど。いつ死んでもいいように。
日本人は、自分たちが宗教どっぷりなんだってさっさと気づいてくれ
そもそもぼくは「今の時代、宗教を信仰する意味ある?」って思ってるんだけど、この話を深掘りするのはまた別途ということで。
日本人は宗教と聞いたらカトリックやイスラムを想像して、自分たちの持ち得ぬ感覚に驚いたりするんだろう、そして「日本人は無宗教だし」とか無理解にもほどがあるようなことを言う。
宗教を宗教と認識し、宗教のための信仰を捧げる外国人の方々よりも、宗教を宗教とも認識せず無思考にも「無宗教」とか言って流されるままに生きる日本人のほうがよっぽどタチが悪い。
自分が無思考に不勉強で、流される人生を送るだけならいい。ただ、そういう人間は、宗教を宗教とも認識してないので、平気で他人に宗教感を押し付ける。
高校のころ、身内の葬式のために修学旅行を休むことになってしまった友人がいた。無論、その友人は葬式なんかより修学旅行に行きたいと強く言っていた。
親は、自分の宗教感を子に押し付けている自覚はあったのだろうか。
この例に限らず、「葬式は他の用事に優先して出席するもの」「葬式にも出ないなんて!」「お世話になったのに」と、無思考にも他人に押し付ける人間の多いこと。
そもそも日本社会では、好きなアーティストのコンサートに行くために有給休暇をとれないのに、(いや、取れるはずなんだけど)、冠婚葬祭のためには当然のように、「冠婚葬祭なら仕方ない」と言わんばかりに、有給休暇がとれるらしい。
日本がいかに宗教を重んじているかがわかる。いや、宗教を重んじるのはいいが、なんでそこまで宗教を重んじながらそれに気づいていないの?なぜ「日本は無宗教」とか思えるの?っていう話。
つまりね、ぼくの死後に日本人にお願いしたいのは、
・日本人はめちゃめちゃ宗教感の強い国民性だとちゃんと認識してほしい
・個々人のレベルで、これは宗教の話、これは宗教とは無関係の話、というのをちゃんと区別してほしい
・そして宗教の話ならば、他人に押し付けるのは一切やめてほしい
ということ。大学のキャンパスにいるアラブ系の学生があなたに「なぜメッカに礼拝しないんだ!一日に一度礼拝しろ!」って言ってきたら狂気の沙汰でしょう?「いや信仰するのは勝手だけど、わたしイスラム教じゃないし...」って思うでしょう?そのレベルの話が日本では起こりまくってるの。異常だと思う。ぼくは異常だと思うのにほとんどの日本人は気づいていないから、すごく生きづらいの。
葬式は例に出したけど、他にも日本には大量にあるさ。
・大事な友人の結婚式なのに出席しないの??
→大事な友人かどうかと結婚式に出席するかどうかは別。大事な友人ならば結婚式には出席し、なぜか3万円を渡すのはただの宗教。
・恋人の誕生日なのにプレゼントとかないの??
→生まれた日(ただの人類の後付けした数字)を重んじて、さらにその数字の日にプレゼントを渡すなんて宗教以外の何物?勝手に楽しむのはいいんだけど同調圧力はやめて。
・クリスマスなのに今日のディナーはファミレス??
→いや、もう(笑) 完全に宗教じゃん(笑)
こういうの、どんどんなくなっていったらいい。何度も言うように、あってもいいんだけど、ちゃんと宗教だと認識して、他人には決して押し付けないでほしい。
最後に何個か例示したのでわかると思うんだけど、宗教っていうのは別に既存の宗教だけを指すのではないということも注意したい。日本のいわゆる「常識」とかも宗教だよね、「ビジネスマナー」とか最たるもの。面接にはこんなスーツをこんな着こなしで、ノックは何回カバンはこれ、みたいなの、まあこんな馬鹿らしいのは数年ですぐ消え去ると思うけど現時点では存在しててこれも完全に「宗教」だよね。
それも含めての宗教の話です。
馬鹿らしいのでさっさと消え失せるか、「宗教」としての認識で残って同調圧力のような類は一切なし、という風になってほしいものです。
ぼくが遺書を書く理由
遺書と言っても自殺するつもりではないので、少なくとも慌てないでほしい。
余命宣告されているわけでもない。
そういう意味で、勘違いさせてしまうかもしれないことは、申し訳ないと思う。
だけど、僕は「遺書」が書きたい。
なんというか、当たり前すぎて言う必要ないかもしれないけど、いまどれほど健康でもいつ死ぬかわからない。
ぼくも100歳まで生きるかもしれないし、あと1年かも、あと数日の命かもわからない。
そうなると、いつ死んでも大丈夫なように、(大丈夫ではないけど)、遺書は残しておきたい。
もし死んだら、葬式なんてほんとに要らないので、遺書だけ読んでほしい。
だって、嫌じゃないか。ぼくがある日突然死して、あることないこと推測されて、誤解されて、都合のいいように解釈されていくなんて。
たとえば、ある男が離婚してから1年後に突然死したとしたら、「奥さんと離れて辛かったんだろうな」とか絶対に、勝手に、解釈される。たとえ全くの無関係の死でも。
いや、他人にどう思われるとか、全然どーでもいいんだけど、死後に関してはさ、他人の頭の中でしか自分は存在できないから、その唯一存在する「自分」が歪められる不快さは、放っておけない。
だから、ぼくは遺書を書く。
ぼくの死後、唯一存在する「自分」が可哀想な目にあわないために、書く。
「遺書」と聞いて反射的に「縁起でもない」とか、感情だけで判断しないでほしい。
不要な感情抜きにして、合理的じゃないか。遺書って。
だれの目も気にせずに遺書を書きたいから、このブログは匿名で書くし、とくに宣伝してみんなに見てもらおうということもしない。そうだな、このブログのQRコードでも、ぼくの鞄の中にでも入れておいて、死後にはちゃっかり見つけられるようにしておこうか。
読者向けとかじゃなく完全に「自分のためのもの」だから、正しいことを言うとも限らない。偏見もあるだろうが、配慮しない。とにかく自分の思想を残すことに専念したい。
ん?結局ただの日記じゃん?って?確かに、そうかもしれない。ただ、漠然と日記を書くのとは心持ちが少し違うんだ。ここはぼくの問題。
漠然とした日記は、これまで何度も試して、いつでも続かなかった。
だから、半ば日記は自分には向いてないじゃないか?って諦めていたけど、それでもいまこうしてブログを立ち上げようと思ったのは「遺書を書きたい」と思ったからだ。
「自分の死後にも残したいメッセージ」なので、うーん、目的や心持ちが全然違うかな。
そんなわけです。